礼拝
伊藤真人
常盤台バプテスト教会 2023.1.15 主日礼拝 「隣人としての家族を愛す」伊藤真人牧師 (フリーメソジスト小金井教会牧師)【マルコによる福音書 12章28~31節】(新共同訳 新約P.87)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 マタイによる福音書 11章28~30節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生1番「聖なる 聖なる 聖なるかな」1.3.4番
献金感謝 司式者
聖書 マルコによる福音書 12章28~31節
特別賛美 "主の恵みに生きる" 小松澤 恵
宣教 「隣人としての家族を愛す」伊藤真人牧師 (フリーメソジスト小金井教会牧師)
祈祷
賛美 新生628番「われは主にみな捧ぐ」1.3.4番
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- 聖書には家族の大切さ、家族の本来の姿、家族が愛し合うために大切な事がたくさん書いてあります。私たちにはそれぞれに育った家族があります。そして、今自分たちで築いている家族があるという方も多いでしょう。また、教会のことを神の家族と呼ぶことも出来ます。家族を愛するということについて、神様は聖書を通して、どんなことを私たちに教えて下さっているのでしょうか。
イエス様は、人生において最も大切なことをシンプルにまとめて教えて下さいました。「神を愛し、人を愛すこと」ここにすべての掟がまとめられています。ここで語られている愛は決して、ただの感情ではなく、全身全霊で相手を愛する愛です。救い主イエス様の生涯を通して示されている真実の愛です。相手のためにすべてを犠牲に出来る愛。
家族を愛するということを考える前に、ここでイエス様が教えて下さっている愛に関する原則を見てみましょう。それは、今日の箇所でイエス様が語っている第一と第二の掟の順番に表れています。神を愛することが第一で、隣人を愛することが第二です。なぜこの順番かと言うと、聖書では私たち人間の愛の無さをはっきりと語っているからです。聖書では「神は愛です」と語られていますが、これは裏を返せば、「私たちは、愛ではない」ということでもあります。神様は本質的に愛なるお方です。愛を持っているのではなくて、その存在自体が愛なのです。三位一体の神様の内に永遠の愛が溢れています。しかし、私たち人間は愛を受け取って初めて愛することが出来ます。愛を受け取っていなければ、自分から絞り出しても出て来ません。だからこそ、私たちはまず神様の愛を受け取り、その愛の中に生きて行くことが必要なのです。神様の愛は完全で、尽きることがなく、いつも私たちに注がれています。
神様の愛を受け取りながら、神を愛し、人を愛して生きて行くというのは、素晴らしいことですが、それを家族に対して実践しようとする時に、すぐに壁にぶち当たります。家族という存在は、安心してお互いを見せ合える存在です。
しかし、そこにあるお互いの姿というのは、それぞれに弱さを持ち、傷を持ち、罪深い姿です。そんなお互いを、神様が示しておられる愛で愛し合うというのは、不可能です。家族を愛そうとすればするほど、自分の内側にそんな愛がない事を知る。これが、神様がデザインされた家族の仕組みです。そこで私たちは神様の必要性を知るのです。家族を通して自分の闇を知らされる中で、神様を求め、神様の愛を受け取って行く。神様の愛を受け取っていく中で、神様の愛の光が私たちの闇を光に変えていってくれます。
家族は、愛するようにと神様が与えて下さった尊い隣人です。家族のこととなると複雑な感情が湧き上がって来ると思います。しかし、人には出来ないことが神様には出来ます。私たちが心の闇に神様の光を迎え入れる時、そこには神様の癒しが待っています。夫婦の関係、親子の関係など、大切な関係に神様の光が届く時、冷たくなっていた、ぼろぼろになっていた心に温かい神様の愛が届いて行きます。すぐにすべてが解決するとは限りません。もしかしたら、この地上では解決しない問題もあるかもしれません。しかし、どんな問題でも、そんな自分を見捨てずに愛してくれている神様がいることを知ることが出来ます。そして、神様にあって心が癒されて行きます。教会こそ、自分の闇を隠さず、神様の前に注ぎ出すことが出来る場所です。「ありのままの姿で来なさい」と神様は私たちを招いて下さっています。神様の前に一歩踏み出し、神様の愛なる光によって私たちの心の闇を光へと変えて頂きましょう。